雲を見ている人は刈り入れをしない。
たまには何か書こう、として久々に編集画面開いたら、まちがえていくつか記事が消えたっぽい。こうやって、やがて全ては無へと帰するのですね。塵は塵に、灰は灰に、ただ風の前の塵に同じく、ただ風を追うようなもの。
話は変わるけれど、一人暮らしも長くなると一人でたこ焼きパーティーをする夜もある。
こう言うと、「ああ寂しい奴なんだな」とか「よほどタコ焼きが好きなんだな」と、そんな反応が言葉ではなく、目、つまりは視線で返ってくる。
そして言葉はだいたい次のようなものが返ってくる。
「へぇ、いいなぁ」
うそつけ、と俺は思う。適当に合わせるのはやめれ、なんもよくないぞ、と俺は思う。
一人で粉を溶かして、一人でソースとかを準備して、一人でタコを買ってきて、タコを刻む。タコを刻んでいる時、おれはまるで自らの身を刻んでいるようなミジメな気持ちにすらなるのだ。
なんもよくない。
テレビの前にタコ焼き焼き機を置いて、映画でも流しながらタコ焼きを焼く。
もちろん字幕ではなく、吹き替えにする。画面を見なくても筋を見失わないための工夫だ。それでも時折、筋がわからなくなる。
そうしてタコ焼きが焼き上がるわけだけれども、ここで俺は皆に謝罪しなければならない。
さんざんタコ焼きについて言及してきたけれど、じつはこのタコ焼きにはタコは入っていない。
買ってきただの、刻んだだの、心が痛かっただのというのはすべて嘘だ。
「じゃあ、何が入ってるの?」と皆は思うかも知れない。未知なる球体内のミステリーを気にするかも知れない。
何も入っていない――これが答えだ。
つまり、ただの球形に焼いた小麦粉でしかないのだ。
『地図にもない場所へ~ 手を繋いで~』とかBUMP OF CHICKENが歌っていたけれど、俺のこれは『名前のない料理』で、もっといえば『味すらない料理』なのである。誰も、手を繋ぐどころか、箸もつけてくれない。
中はからっぽであるが、鰹節をかけて、青のりをまぶして、ソースをかけてやれば、さもタコ焼きのような偉容を見せてくれる。そして食べてみれば、望んでいたタコ焼きの味――つまりは濃厚なソースが下に乗り、鰹節の風味もほのかに香る。
俺は思う。これは、ほぼタコ焼きじゃないか。
この『球体の何か』に欠けているのはただタコの食感だけなのである。それ以外は完璧にタコ焼きだ。
だが、いざそれを食べるまでは、人はその食感が欠けているという事実に気がつきはしない。飾られた外側だけを見て、「これは素晴らしいものだ。すごく美味そうだ」などと錯誤さえする。
そして食べてみてはじめて、『タコ』が入っていない事実に直面し、そこで「失望した! これはタコ焼きじゃない! こんなのアンフェアだ」と批難さえするのだ。裏切られた自分は被害者だとでも言いたげに。勝手に錯誤したのは自分であるのに。
しかし、たしかに食感以外は完璧でも、タコが入っていなければタコ焼きではない。
じゃあ、『限りなくタコの食感に似た何か』を球体に入れておいた場合、どうなのか。きっと人の子はその『まがい物タコ焼き』に気がつかず、「ハフハフ、あついけど美味しいね!」などと幸せそうに感想をもらすのだ。それがまがい物であるという事実を知らされるまで、人の子はそれがタコ焼きであったと信じて疑わないだろう。愚かにも。
なんだか良くわからないけれど、以上の事実がすごく深いことのように思われたので、おれはこのタコの入っていない球体焼き物を、「人類」と名付けた。
初めてRSSフィードっていうのを登録してワクワク待っていたのに、
まつかくさん、なかなか記事書いてくれないから、RSSフィード全然働かないし、
あれ?登録の仕方間違ってるのかな??って、結局何回もブックマークから足を運んで、今だってブックマークから開いちゃいましたよ。
何が言いたいかっていうと、わたしも一人タコパするしいつもタコ無しのタコ焼きだし画面見るの疲れるから吹き替えだし吹き替えにしても話聞いてないからわからなくなるし、気が合いそうだなと思ったのですが、
わたしはソースもつけないで食べるので、やっぱり、まつかくさんとは一緒にタコ焼きパーティーできないみたいです。
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たこ焼きはやはり醬油味に限るでしょう♡と思い読んでいました(笑)一人タコパ良いじゃないですか!どんどんやりましょうヾ(o´∀`o)ノけど中身はちゃんと入れてください(笑)たこが入ってないたこ焼きなんて、ただの「焼き」じゃないですか(笑)
しかし、「人類」を食す男マツカク…何だかかっこいいですね(笑)
>>関西人さん
返事が遅くなりました。寝る前にベッドの中から返信します。
『なにかを作るときは吹き替えにするメソッド』を俺以外にも編み出した人がいるとは、すこし驚きました。人の子にはしては、なかなかやるじゃないか、と。
しかし、「なにも付けずに食す」という箇所を読んで、「ふふ、やっぱり人の子だな。可愛いものだ」と安心もしました。
あの――芥川になれなかった太宰がごとく――タコヤキになれなかった明石焼きですら、ダシ?みたいな、ようわからんタレをにつけるというのに、あえて何も付けないとなると、関西人さんはそのうち、焼く事すら怠るようになります。そして、小麦粉をそのままバフバフとくちへ運ぶようになるのです。
そうして、くちのまわりを真っ白にしては「素材の味が生きてるね」などと言うに違いないのです。素材の味は生きているけど、その時のあなたの目は死んだ魚のよう……!
そうして、やがてそれはエスカレートします。
小麦――秋に畑を黄金に彩るそれ、風に煽られては、空気のかたちを見せてくれる――ステキな小麦の並ぶ畑へゆき、黄金の小麦をそのまま口へ運ぶようになるのです。本当に生きている素材ではありますが、やはり目は死んでいます。
でもきっと、その行為はニュースになります。農家からしたら小麦泥棒だからです。通報されたアナタは、おりからの栄養不足(小麦粉しか食べていないため体力がなくなっている)のために、あっさり当局に確保されるのです。その事件を報じた夕方のニュースは、きっとスピルバーグ監督あたりに感銘をあたえ、映画化されます。
おれは、タコの入っていないモノを焼きながら、スピルバーグの新作映画『小麦畑でつかまえて』を見る事になるでしょう。
もちろん、吹き替えで。
>>*(。≖‿≖ฺ)さん
ここにもまた、愚かな人の子がひとり……!
食べたことはありませんが、醤油味というのはタコヤキ、そして醤油に対する冒涜行為である、とマタイによる福音書に記され、それを冒したるものは復活の日まで地獄の業火に焼かれる、とも書かれています。
しかし、悪気があった事ではないと私は知っているので、地獄におちる際には私もともに堕ちようと思います。ひとりにはしません。
そして、あなたを焼く地獄の業火、その火力で私は『人類』を焼きます。そうして二人でタコヤキパーティーをしましょう。
もちろん、醤油味も用意します。もう地獄に落ちちゃってるから、罪とか罰とかどうでもいいのです。きっとマタイも地獄にいます。
鬼たちにも仕事をすこし休んでもらって『人類』をふるまいましょう。
宴は延々と続くでしょう、最後の審判がはじまる、復活の日まで。
かつて常連だったたこ焼き屋さんがあるんですが、おばあさんが小さな屋台でひとりやっていまして。
この時代にそぐわぬ破格で今なお営業されているそうです。
そこのメニュー表には「チーズ」「天かす」などと選べる具材が並び、一覧に「タコ」とあるのです。
そう、おばあさんのたこ焼きは、「タコ」以外にタコが入っておりません。
それでも店の暖簾には堂々と「たこ焼き」と書かれているのです。
つまりはそういうことです←
関西人たこ焼き好きですがたこ焼きパーティーに入れる好きな具材ベスト5にウインナーとかたくあんとかもうアレなわけです。
重要なのはソースと鰹節と青のりなのです。
お元気そうで何よりです。お身体ご自愛下さいませ○┓ペコッ
>>ミヤさん
たとえば米国が人種のるつぼと評される多民族国家であるように、たこやきにも変革の時代がやってこようとしているのでしょうね。ある意味では球形のお好み焼きという概念に落ち着くのかも知れません。
我々の知っている常識というものが、偏見のコレクションにすぎないように、新時代にむけて観念のアップデートが必要となる時代なのでしょう。1000年後の『タコ焼き』はどのようなモノを指すのか、思いは巡ります。